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2004年7月27日 12:24 AM #12993
みさえ
キーマスター「豚のしっぽ氏」って笑ってしまいました。こういうセンスオブユーモアを
笑える慶應の先生は沢山いらっしゃいますよね。私は「インストラクター」もだめ「豚のしっぽ氏」にも笑える人が少ないとなると
書き込みができなくなりそーです…。Mizukokoさん、私もひどーーーーい酷評を頂きました。ジュイチさんと同じです。
ずっと書きたかったですけどね。2004年7月27日 3:46 AM #12994もとくん
キーマスターmizukokoさん,こんばんはっ
>わたしが気になっている、「閉じた体系の中で考える」とか、288の、哲学の批判と
>いうのは、外部に立って独立した意見を述べるのではなく、内部の間違いを論理立てて
>証明すること、というのと、同じようなことですよね?
そうですね、同じことです。
例えば、プラトンの説が立論(結論ぷらすその理由)とすると、
それは、「Aという結論があり、その理由がBである」で
ある、というような論理構造になっているはずなので、
批判(反論)をするなら、B→理由からAの結論は導き出せない
ことを証明しなかればいけないということになります。
いわば、C→理由という新たなものを見つけることになります。もうひとつ、A:結論とB→理由とのつながりそのものを否定してしまう
ってのも有りですね。これは、そもそも相手の説そのものが根拠を持たない
ことを証明することです。
いずれにしても、相手の言っていることの範囲内で反論・批判しないと
いけないってことです。>次には、外に出てしまい、「でも、だいたい、人間を魂と肉体にすっぱりと分けてしま
>うなんて、単純すぎない?」とか、「イデアの世界には、生の息吹がまったく感じられ
心身二元論は、西洋を理解する上で、とってもためになると
思うんですよ(^^)
ソクラテスやプラトンの時代は、神学的・宗教的な側面が強いですけどね。
もうすぐオリンピックですが、昔、言われた
「健全な精神は健全な肉体に宿る」ってのも二元論的思考ですね。
二元論は、遡行すれば、プラトン達の時代に行き着くわけで、哲学に限らず、
歴史や文学の問題でもありますね。あと、
突き詰めれば、コンピュータだってこの二値論理の賜物です…。2004年7月27日 4:00 AM #12995もとくん
キーマスターコンノさん、こんばんは
>『論考』の時点で彼が“論理”と言うものを
>どういう風に捉えていたのかに関心があります。
>これを『論考』の文脈の中で読み取り、そこから
>自分自身にとって哲学的に相応しい問題を見出せたら
>なぁ、等と考えてます。
野矢センセの解説本を最近読み始めました、
また、いろいろ教えてください。
『論考』は、僕も制覇(理解?)したいと思っています。オブジェクト指向についてはまた機会があれば、お話させて
頂きますね。では、おやすみなさい。
2004年7月27日 9:14 AM #12996mizukoko
キーマスターみなさま、(ジュウイチさま、みさえさんまでお出ましいただいて)、ありがとうございます。
いろいろ思うことがありますが、課題の曖昧さにご賛同いただけるのは嬉しいです。
2003年度のわたしが選んだ課題は、「・・・魂の不死について論ぜよ」です。
ご存知のように、「パイドン」は、全編、「魂の不死」について論じている本です。
この課題だったら、どうしても、全体の概説をする他ないではないですか?
「すべてを扱うのではなく、あなたが哲学的に重要だと思う部分に焦点を絞り・・・」というご指示は、最初のDの講評で、初めて出てきたのですよ。
(2003年度課題集のP.163の注意点のうち、最初の「自分の選んだテーマを・・・」というのは、「プラトンかアリストテレスかアウグスティヌスか明示せよ」ということで、「魂の不死」のうちから、さらにテーマを絞る、ということではありませんよね)
そして、ここには「あなた」とありますが、もし、わたしが重要だと思ったところが先生のそこと同じではなかったら、「焦点がボケています」という講評をいただくことになるのでは? というのは、いわゆる下司のかんぐりでしょうか。この課題は、たとえば、「mizukokoについて論ぜよ」という課題を出して、実は、「mizukokoの最近の髪型について、顔立ちに対する妥当性の有無を論ぜよ」というのを要求しているようなものではないでしょうか?
ですから、先生の「レポートの書き方本を読んで自学自習せよ」という講評は、あまりにも的がはずれているので、mizukokoは怒ったのです。
たとえば、もとくんさんのように、「批判と異論の違い」についてご指摘くだされば、バカなわたしでも、少しはことが見えてくるではありませんか。
コンノさんのように具体的にていねいに、とまでは、申しませんけど。
生徒の問題点をぴたりと指摘できるのが、良き教師の第一条件ではないかと思います。もとくんさん、
確かに、二元論は、心身に限らず、西洋のものの考え方の基本ですよね。
mizukokoは、これが、西洋思想の行き詰まりの根本原因であり、諸悪の根源だと思うことさえあります。
わたしの卒論テーマにも、かかわりがあるのですよん。
そして、まさに、この二元論を脱しているところが、スピノザの異端たるゆえんであり、mizukokoが深く共感するところです。
夏スク、楽しみです。2004年7月27日 10:33 AM #12997eriko。
キーマスターSEMEさん
>「インストラクター」もだめ「豚のしっぽ氏」にも笑える人が少ないとなると書き込みができなくなりそーです…。
↑から、>「西洋哲学史1」の一連のレポート講評に関して、「M」だの「ムチ」だのと言うのはどうなのでしょうか?
>敬意を払っているのかな?
↑までの間で、
真面目にかたりつつ、ちゃんとふざけるのはなかなか技が必要なんですよね~。「M」だの「ムチ」は自分に対することだから、オッケーと思うのね
最低限必要なのは先生をお呼びする表現に対してだけ?
本当に個人的な好みの問題で、ワタシは「できたら避けたい」と
わがまま言ったので、「どうしてもそう呼びたい」とおっしゃる方は、どうぞどうぞです。2004年7月27日 11:01 AM #12998eriko。
キーマスタージュウイチ塾員!おヒサです。
みさえさんも参加してくださって歓迎です。
貴重な体験談ありがとうございます。SEMEさんの
>むしろ学生によいレポートを書かせようとていねいな指導をしてくれる教科だと思うのです。という意見と、ジュウイチさんやmizukokoさんの意見と結構相対してますよね。
ワタシもどちらかというと、講評には納得できて、違和感を感じなかった方です。この差は何?
2004年7月27日 11:40 AM #12999もとくん
キーマスターmizukokoさん、今から出かけるので手短に。
お役立ちリンクの純丘センセのとこでプラトンの説をふまえてテキストに
向かってみてください。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kodai/kodai02b.html「魂の不死」について少し多面的に解釈できるようになると思います。
では。
2004年7月27日 1:38 PM #13000mizukoko
キーマスター>この差は何?
erikoさん、
そりゃ、わたしとerikoさんのレポートが、いろいろなところで異なっているからです。しかし。みさえさんも、酷評をもらって、ジュウイチさんみたいに怒ったの?
2004年7月27日 2:07 PM #13001コンノ
キーマスター>AKKOさんや、べる・りんさん
には申し訳ないのですが、、、西哲1がらみで、もう少し。
>レポートのサイン
(西哲1だけではないですが)
のことで昨日分室に質問の電話をしてみました。
レポートのインストラクターサイン欄は、講評者がちゃんとレポートを
みて講評したという記録の為にあるだけであって、
誰が見ても分かるようにサインしなければならないという
ものではない。
という主旨の回答でした。また、
>西哲1のレポート講評
についてですが、基本的にはオレも
SEMEさんや、eriko。や、このこさんに同意見です。
しかし、ジュウイチさんやmizukokoさんが感じているような
ことについて共感できる事も結構あります。このことは、
大学の専門科目の履修科目として、
しかも慶応の通信課程の現状の中で、
哲学を履修することの制約によるものに起因している
とオレには思われます。
>西哲1レポの場合、
講評者が自らの考えに基づいて基準外のレポートについては
はっきりと不合格にし、
それに似たような事柄に元々興味をもつ人以外はテーマが掴みにくい
状況の中では(オレ自身は以上の事を肯定的にとらえています)、テーマに囚われすぎず論理立てて文章を書くのが上手い人とか、
テーマに似たような事に常々関心を持っている人、
以外はスンナリと合格しにくいのではないでしょうか。それなのに、指定された原典のみを読むことだけで
論としてまとめなければならないのですから。
西哲1のテキストはほとんど役に立ちませんし。パイドンの魂の不死のテーマでいうと
(他の課題についてまでは答えられないのですが)
一まずオレの個人的見解としては、
想起説の世界観から“死”の意味を捉える事なしに
論ずるのは無理のように思えるのです。
『パイドン』における想起説については
現代においても部分的には説得力を持つものとオレには思われます。
でも、これっていくら言葉を尽くしてもピンとこないよ!
っていう人のほうが多いんじゃないかと思うんですよね。
あまりにも当たり前の様に思われることについての疑問の提出を
発端にしているはずだから。
さらに、そこから“死”の意味を見出さなければならない。。。といいつつも、SEMEさんの仰る通り、
あくまでもレポートなのでそこまで問題を掴まなくても
合格できるはずですが。
あくまでも、『パイドン』を何回も読んだことを示し
それに基づいた“論”になっていれば合格になるはずです。
(こういう意味でSEMEさんやeriko。さんに同意します)しかしレポートのテーマに何らかの関心を持ち自分の視点から
論じたいという人にとっては『パイドン』をテーマに書いて合格
するのは大変なことなのかもしれません。オレ、このスレッドで何回も『パイドン』についての体験記?
のようなことを書いてますけど、核心については全く触れて
いないと思いますし。
レポート講評者が『パイドン』のテーマで最終的に
求めているのはこの“核心”部分を見出して欲しいということみたいです。だけど、ここまでいくのは強い関心と根気が必要だと思われます。
でも、テーマが一見漠然としていてその結果一回で合格できない
というのは、この科目の担当の方がレポートのやり取りを通して
(不合格になるので)、前述した制約の中でなかなか伝えにくい
哲学の在り方をなんとか知って欲しいという意図によるもの
なのではないかとオレ自身としては好意的に解釈してます。2004年7月27日 5:52 PM #13002コンノ
キーマスターまたまた連続の書き込みゴメンナサイ。
>309
>SEMEさんや、eriko。や、このこさんに同意見です。
なんてうっかり書き込んじゃいました。
eriko。さんごめんなさい
二回目なので謝っておきたいと思いました。2004年7月27日 7:44 PM #13003SEME
キーマスター>「M」だの「ムチ」は自分に対することだから、オッケーと思うのね
eriko.さんの書かれたことはわかります。ゴメンね。ただ想像力豊かな(=スケベな?)私は、自分たち学生だけに留まらず、
ムチをふりふりしている
サディスティックな指導教員の姿を想像してしまうのです。
(私だけかもしれないけど)
そんな想像もできてしまう「M」「ムチ」と書いているのなら、
インストラクターの表記について気を配らなくても問題ないのでは?
とちょっと思ったまででした。なおていねいな指導についてですが、私の西哲1レポでは
論旨で触れるべきテキスト(ソクラテスの弁明)のポイントを
具体的に指定してくれたり、
レポ中の言い回しや順番などの訂正部分を
赤ペンで細かく書き直してありました。
1回め不合格の時は「期待しています。がんばってください」
2回め不合格の時は「不合格に驚かれたかもしれませんが、
あと1回がんばってください」のコメント。
合格時には採点者がこだわった理由とともに、
同じようなテーマで書いた別の方のレポのコピーがついてきて、
「今後の課題として他人がどのようにテキストを読んだか、
自分と比べることが要求されます」と合格後の学習課題まで
与えてくれました。
正直ここまできちんと指導してくれるのかと感激しました。しかしジュウイチさんのような「レポートの書き方云々」を読めみたいな
コメントだったら、やっぱりキレたでしょうな。。。2004年7月27日 7:48 PM #13004コンノ
キーマスターうーーー。。。三連続書き込み、憚りますが
>302
>304
で二元論が~~~、という記述がありまして
少々気になった点がどうしてもありましたので。二元論的思考法について、思想史的側面から説明
されている著書とか、その否定的な部分で解説されている著書
をオレも目にしたことがオレにもあります。
でもそういう論点は、ここでの(想起説的世界観とか、そこから導かれる
魂の不死というテーマでの)核心的な論点とは同じものとは言えない
と思います。
もし、二元論の誤りという観点から論ずるならば、
[第一]イデア論的世界観の視点/考え方を
テキストからなるべく正確に読み取り、
[第二]それが二元論的観点/思考法からの誤りであることを
論理的に示し、
[第三]さらにそれに変わる観点によって
二元論的世界観の立場で問題にされているテーマの問題を
解決すること(或いはそれが実は哲学的問題ではないこと
=擬似問題であること=問題を解決するというより解消すること)
を明らかにする必要があります。>288 に於いてもとくん、さんが説明していた「哲学批判」とはこのような
作業のことなんじゃないかとオレには思われるんですよね。
しかし、こういうのってたかだか四千字で論じらることではないのでは?
しかも、ここで要求されているのは[第一]の部分だけのようですし。確かに、西洋的な二元論(的思考)の問題点というのも分かります。
理性(精神・知性)と物(からだ・自然界)とを区別して世界を捉える
思考法だと自分では理解しています。
脳死者からの臓器移植とか、
壊滅的な破壊をしてまでも経済的発展の為に自然界を人間が支配
しようとすること、等その他、
こういう発想は元々においては自然界に対する人間の(精神性の)優位
という二元論的世界観に由来するものであり、
理性を信奉した西洋の精神史に独自な文化的価値観に基づくもの
である、という視点から語られ議論されているように思われます。
(多少ズレた説明かもしれませんが)こういう視点から『パイドン』を読むことも出来るかもしれませんが、
レポの課題とは違うようにオレには思われます。
例えば、実在という観点からイデア論を読めばイデア論に基づく
世界観は一元論ともいえませんか?
これ以上書くと答えそのものになりそうなんで止めますが。さらにこの観点から『パイドン』を読むことが、
今年の西哲2の課題である“実体”についての近代の哲学者の
問題意識に近づくのに役立つという副産物ももたらすように
オレには思われるんですよね。みなさま、クドイ書き込み失礼致しました。
2004年7月28日 5:08 PM #13005よーこ
キーマスター文1スレはゴイス。ここ読んでるだけで論考スタディできる。パイドン、心身問題二元論、SM是非論…
2004年8月5日 12:21 AM #13006松
キーマスター松です。
卒論がらみで最近漠然と考えていること(厳密には、その一つの「変奏」)を、7月試験
後の「うはうは隊」(の2~3次会(笑))の際に、文一の方々にぶつけてみたんですが、
その後余裕がなくてほったらかしになっていたこと…。今日は少し気分的にも余裕ができ
たので、ちょっと書いてみますね。夏スクスレの「スピノザ」ネタにも関係するかも…
~哲学とは何か~
簡単に表現すると、こういうことになるかも知れない。
松の卒論の「構想」は、思いっきり大風呂敷広げバージョンでいうと、「対象としている
作家の思想を、近代の(近代における/近代に対する)思想史(あるいは思想の流れ)の
中に位置づける」というものである。この「構想」から松は、かなり以前に、「近代とは何か」という「問い」を考えている、
というような書き込みもしたことがある。要はそこからまだあまり進んでいない、という
ことなのだが(笑)、それでも最近は多少進展して、「近代批判としての思想」というくく
りで考えるようになってきていて、具体的な近代批判の言説をフォローする作業を続けて
いる。具体的には福田和也の「奇妙な廃虚」を発端として、ピエール・ドリュ・ラ・ロシ
ェルや「アクションフランセーズ」(あるいはモーリス・ブランショ)、あるいはヒトラー
の「我が闘争」からはじまり、ニーチェなどを巻き込みながらの、ナチズムへの流れ、さ
らにはマルクス主義におけるスターリニズムへの流れ、などの、いわば「全体主義」への
流れだ。このように辿っていくと、これら近代(というよりも、20世紀、か)に現れた「全体主
義」の思想は、例えばドイツ「歴史家論争」でハーバーマスがいった、相対化不可能な絶
対悪というような捉え方では隠蔽されてしまう、「近代批判としての思想」が持つ一つの
必然性の現われではなかろうか、という風に考えられてくる。多少説明を端折らざるをえないが、キーワードでいうならば、「本来性」という概念、ア
ドルノに習っていえば「本来性という隠語」である。もしかすると「批判」という作業そのものに必然的にともなうものといえるかもしれない
が、「近代批判」を行う際にはその「批判」の「原点」、ものの見方の「基準点」となる「視
点」を必然的に定立せざるを得ない。従がって例えば「人間の本来の姿は~であるが、近
代においてはそれが疎外されている」というような論理になり易い(ならざるを得な
い??)。例えばニーチェの「大地」「デュオニソス」、マルクス(フォイエルバッハ)の
「類」概念や「疎外」概念などは、この「本来性」の概念と見ることができよう。しかしながら、その「本来の姿」、人間の「本来性」が正しい保証は一体どこにあるのか?
あるいは、その「本来性」が、「今、ここ」にいる人間にそのまま無媒介に実現されなけ
ればいけない理由、必然性はどこにあるのか、という疑問が沸いてくる。上に述べた「全体主義」というモノは、実はこの怪しげな「本来性」なるものに縛られた
近代の「知」が引き起こす、少なくとも一つのガンのようなものとして理解できないだろ
うか…とするならばこの「本来性」なるものは、実は非常に厄介なものではなかろうか…さて(やっと(^-^;;))ここで松が7月試験後に、文一の方々に問い掛けた(絡んだ(^-^;;))
「問い」が、一つの「変奏」として登場してくることになる。哲学とは何か。
哲学者は、持論の前提あるいは論証の根拠として、過去の哲学者の「哲学」を置いている
ことが多い。時に「ソクラテス」、時に「アリストテレス」、そして時に「スピノザ」…しかしながら、「今、ここ」の人間である「哲学者」と、過去の「哲学者」を、あるいは
「今、ここ」の「哲学」と、過去の「哲学」を「無媒介」に結び付けてかまわない理由は
なんなのか?この「無媒介」性は、上に述べた「本来性」に対する「無媒介」性と同じ物
ではないのだろうか?ちなみに「本来性」といってすぐに思い浮かぶのは、やはりハイデガーだろう。しかしな
がら公平に見て、少なくとも「存在と時間」における彼の「本来性」概念は、上記のよう
な意味における「時間」「歴史」的な概念をともなってはいない。しかしながら、彼が「ギ
リシャ」をいわば「本来の姿」とみなしたことなどを考えると、結局彼も「本来性」のワ
ナにはまったのかもしれない。その意味で、ハイデガーが一時とはいえ、ナチズムに荷担
したのは、彼の「哲学」と「ナチズム」が「本来性」という点において親和性があった、
ということなのかもしれない。#その意味ではやはり松にとっては「ハイデガーとナチズム」というのは、本質的な問題
#なのだ。だが、戦後のいわゆる「ヒューマニズムに関する書簡」を読むと、彼が「ヒューマニズム」
に対して一貫して否定的な態度を貫いているように見えるのは、もしかすると彼も、上に
述べた「本来性」の問題点に気がついていた、ということなのだろうか?う~ん、やっぱり奥が深い(笑)
~松(♂50期、文学部第3類)~
2004年8月6日 10:00 PM #13007もとくん
キーマスター松さん、、もうちょっと分かりやすく書いてちょ。
で、ないと松さんが想定している問いに答えにくいっす。
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