- このトピックには581件の返信、1人の参加者があり、最後に
名無しにより19年、 1ヶ月前に更新されました。
-
投稿者投稿
-
2005年5月18日 3:22 AM #13143
お好み焼きZ
キーマスターmizukokoさま、はじめまして、夜分、申し訳ありません。mizukokoさん
おめでとうございます。
お好み焼きZ、mizukokoさまの姿勢を学びたいと思います。
よく、レポートDで、すぐに諦める方がいらっしゃいますが、
レポートDからの合格は、おっしゃっておられたように本当に
お好み焼きZも、学ぶ最良の機会であると考えています。
むか~し大学は、どこの大学でもワープロ不可の時代がありましたが、
そのころは、恐怖の卒論書き直し全部というものが存在した時代でもありました。
現在の大学は、そういう面では本当に楽になったような気がします。(感想)。2005年5月18日 8:34 AM #13144mizukoko
キーマスターかこちゃん、お好み焼きZさんもありがとうございます。
ほんとに、レポートDこそ、通信ならではの、学びの好機です。
わたしも1年半の間に3科目も経験しましたが、Aになったときの講評は最初からAの講評の何十倍も熱く、また今後の学習のための示唆に満ちていて、それこそ最高の宝物になります。
それに、わたしは本代には糸目をつけないことにしていますので、市販テキストはもちろん、中心となる参考文献は購入してかかりますので、そう簡単にはポイできません。
もと取らなきゃ、って。「主婦の意地」ですね。けれども、それもニフ慶があっての話で、なければ、とっくに諦めていたと思います。
ここの存在は大きいです。お好み焼きZさんも、今週、卒論指導でしょうか。
卒論指導スレも貴重な情報源ですので、是非、ご報告をお願いいたしまーす。2005年5月18日 8:44 AM #13145mizukoko
キーマスターコンノさん、きょうの卒論指導のご成功をお祈りしています。
三田に向かって「念」を送ろうかしら。で、今、アマゾンで確認しました。間違いなくその本です。
感激しました。
わたしだからかもしれませんが、泣いてしまいました。2005年5月18日 9:57 PM #13146コンノ
キーマスターでは、mizukokoさん、オレもその本を購入しようと思います。
以下の内容は個人的なことで余計なことなのかもしれないですけど、
不満に思っていることがオレ、あるんですよね。
はっきりいって、
哲学とは何であるかの合意ができてないのにもかかわらず、
現代の専門家の方々の著作・研究書では
哲学とは何か、哲学者とは何かを主題的に論じている本が
あまり無いような気がすることです。
例えば、“哲学”というキーワードで本をネット上で検索すると
無数の本がヒットします。でも、それらの本は究極的に言って
本当に同じジャンルの書物なのでしょうか?
まあ、一般的にいって、上のやり方で本を検索した場合、
かなりの割合で共通すると思われるのが、真理・本当の価値とか価値観とか善悪についてとか・
人生観または人生(又は死)の意味とかなどといった内容に関係する話題だと思います。
でも、本当に“哲学”という言葉で一括りに出来るものなのでしょうか?
もし“哲学”という言葉が上のような漠然としたままで捉えられて
いるだけで、総合や専門の哲学系科目を履修すると
(一般的に現在の多くの日本の大学で哲学を履修すると)
上のイメージとその実際との違いに
違和感を感じてしまうのではないでしょうか?
そして、そこで議論されている内容が自分の好みや傾向性に
合わない場合だと、
哲学って何?やっぱり哲学って訳が分からない。
といった印象を抱いてしまうのではないでしょうか?大多数の日本の大学で行われているのは西洋哲学なんだよ。
だから、そうした違和感は西洋哲学の特性に起因するのであって、
他の哲学はそうとも限らないんだよ。
という意見があるかもしれません。
でも、こうした意見やこれに似た意見は、
その通りだといえる場合もあると思いますが
必ずしもそうではないとオレには思われます。つまり、こういうことです。
上で挙げた話題に関する何らかの主張があるとします。
もし、そういった内容の主張が提示されだけで
その主張の根拠がそこに提示されていなければ、
そうした主張は、信念・信仰・思想・等その他の領域であり、
哲学的ではないと思うんです。
何らかの主張に対して“それはなぜ?”という疑問が提出されたら、
その疑問が論理的に正当である限り、
“なぜならそれは~だからです”というように
言葉を尽くして論理的にその主張の理由/根拠を説明するのが
哲学の本質だと思うんです。このように“哲学”の内容に輪郭をつけるとすると、
巷に流通している“哲学”には
哲学であるものと哲学ではないものとがあるのではないでしょうか?
(西洋哲学・東洋哲学・イスラム哲学・インド哲学といった区分ではなく)
すると、哲学ではないものとは、実は思想や信仰の領域であるとか
もしくは個人的人生観・価値観に基づく世界観の主張を主とする
内容のものなのかな?等と個人的には思います。
(哲学でないものは意味や価値がないということを言いたい訳では
ありません。念のため。)とはいえ、こうした内容はオレの狭い範囲でも
中島義道「哲学の教科書」講談社
永井均『「子ども」のための哲学』 講談社現代新書
などで取り上げられてるような気がしますし、
慶応通信のテキストでも
西脇先生の総合「哲学」や専門科目「科学哲学」において
哲学とは何かについて比較的に分かりやすく説明されているようですが。
(しかし西脇先生の場合、オレが単に無知なせいかも知れませんが、
テキストで言われる“自然主義”、または科学哲学の立場だと
“価値とは何か”“存在とはなにか”といった領域を問題化し
それに上手く答えるのが難しいように思われますが。)ただ、難しいのは独特でユニークな哲学的思考(思惟)でも、
それが何らかの世界観・価値観・認識論についての
思想又は信念(ないし信仰)に基づいてたりすれば、
哲学と哲学でないものとの区別は付きにくくなるわけです。
そうすると、例えば西洋哲学ならそうした範囲思考の傾向性が
認められるわけですし、どんな哲学でも思想的な傾向性が認められ
ることになります。そうすると、上でオレが輪郭付けた“哲学”という
ものなど本当にあるのか?といった疑問もまた出てきそうです。だからこそ、専門家の方々に今以上に“哲学”について
論じてもらいたいというのがオレの希望だったりします。で、だからmizukokoさんお勧めの本の副題が気になっていた
という訳なんです。(あ~またまた、語ってしまった。。。)
2005年5月18日 10:25 PM #13147よーこ
キーマスターあたちも。mizukokoさん泣かした本読む。
2005年5月20日 9:49 AM #13148mizukoko
キーマスターコンノさん、おはようございます。
454の書き込みを拝見して以来、わたしの貧弱な頭のあちこちが刺激されるのを感じてしかたがないのですが、残念ながら、現在のところは、まとまった言葉で表現することができません。
このような話題は、是非とも、もとくんやこのこさんやpopoちゃん等とご一緒に、ゆっくりとお話してみたいものだと願っています。
わたしには、対話こそ、重要な、また有効な哲学の方法なのではないか、という思いが常にあるものですし。それをお断りした上で、ちらっとだけ、わたしなりの「哲学とはなんぞや?」を語ってみるとするならば、
それは、>真理・本当の価値とか価値観とか善悪についてとか・
人生観または人生(又は死)の意味とか
を、>言葉を尽くして論理的に考え、語るものである、ということになると思います。
そして、この場合、重要なのは「言葉を尽くして論理的に」ということであり、それに比べれば、哲学と信念、思想、信仰の区別などどうでもいいのではないかと思います。
もしかして、そのあたりを区別したい、というお気持ちの奥には、何か特定なものを信じ込みたくない、という、恐れのようなものがあるのではないでしょうか?わたしは、人間が考えたり感じたりすることに、言葉の厳密な意味での客観性とか中立性などというものはないと思います。
それぞれの主観でしかなく、また、人と人との間には、なかなか乗り越えられない差異の壁がある。しかし、それと同時に、共通するもの、普遍的なものも厳然と在ると信じます。以前、もとくんから(もとくん、何度も勝手に引用させてもらってごめんね)、
「日本人は、自分の信仰を対象化させることができにくい。それに比べて、西洋哲学の伝統を持つ欧米の人には、それができやすい」という話をうかがいました。
その時、わたしは、なるほど、確かにその通りだが、それはまったくできないということではないのだから、そのように努力していきたいと思いました。
そして、そのためにも、最も有効なものが「対話」なのだと思いました。
その対話は、もちろん、じかに膝を突き合わせておこなうのが一番ですが、読書という場で、本を相手に、という場合もあるわけです。
ですから、わたしにとって、哲学の本というのは、何よりも、そのような対話を誘うもの、わたしの心に響くものでなければなりません。
さらに、その場合のテーマは、詰まるところ「どう生きるか?」なのですから、単なる言葉のもて遊び、思考ゲームみたいなものでは意味がありません。
頭と同時に、心もおおいに刺激して欲しいのです。去年の夏スクの、スピノザの倫理学の講義時に、どなたかがおっしゃった、
「自分が受けているもうひとつの講義は、心がテーマなんだけど、まったく心に響かない。それに比べて、こちらは心に響く」
という言葉を思い出します。例のプラトンの本は、まさにそれ、「心に響く」ものでした。
ですから、コンノさんの問いかけの答えが見つかるかどうかはわかりませんが、mizukokoの頭と心に強く響いたものとして、お勧めいたします。2005年5月20日 10:09 AM #13149ぺこ
キーマスター私も、その本、読んでみようっと(わかるかな、、、)。
2005年5月20日 11:27 AM #13150ぽぽ[popo]
キーマスターコンノさん、
> 永井均『「子ども」のための哲学』 講談社現代新書
は、私も大好きな本です。私にとっての「哲学」というものに一番近い気がしました。
中島義道『哲学の教科書』は、ここの出願のときに「あなたの専攻したいことにまつわる本について」
という文章を書くんですが(毎年そうなのかな?)、その時使った本です!
・・・といいつつ今は哲学専攻ではなくなってしまいましたが。2005年5月20日 12:10 PM #13151hisoka
キーマスター塾員になり他のスレッドでも発言しているhisoka。
慶応の卒業までの道のりに誰もがいきつく重要なポイントとして
「課題に対して見聞を広め、あらゆる考察の結果、結論に至る」
という癖を身につけるように教育プログラムなされていると。
別に慶応に限ったことではないかもしれません、ただわかりやすく
説明するとこういう風なんじゃないかな?と。
今の御時世レポートをするにもツールはたくさんあるから駆使せよ、と。
何が脳ミソの興味の琴線にふれるかは個人差があるので・・・。
DからAへ時間をかけてプロセスの中で身につけるか、「学び」の
エッセンスを誰かから分けてもらい自分なりに身につけ直すかでしょ。2005年5月22日 7:33 PM #13152コンノ
キーマスター昨日、『プラトン』購入しました。
この本も平易な文章で書かれていますが
ゆっくりかみしめるように読み込んでいくことで理解を深めていくような本で
あるような印象を受けました。ぽぽさん、やはり、知ってますね!
でもオレ実は、
『「子ども」のための哲学』は地元の本屋で立ち読みしただけなので
取り上げかたが適切でなかったかもしれません。ぺこさん、専門的な本ではないのでイキナリ読んでも大丈夫ですよ。
よーこさん、イキナリ読んで泣けるかどうかは?かも。
でも、『ソクラテスの弁明』(ソクラテス裁判を描いた作品)
『クリトン』(裁判で有罪になったソクラテスに脱獄することを説得する
クリトンと、死刑を受け入れそれを拒否するソクラテスとの対話)
を読んでからだと違うかも?岩波文庫だとこの二つのプラトン作品は
『ソクラテスの弁明』として一冊で読めます。ただ訳が古め。
でも、難しい表現は無いはずだから一気に読めてしまうと思います。さらに、mizukokoさんがお勧めする本の筆者は解説書を読むことは、
「かえって、哲学する生きたプラトンを殺してしまう。実際、プラトンの
「イデア論」とか「想起説」とかのもっともらしい解説に、陳腐さ以上のものを
感ずることは稀である。そのような解説に満足した人々は、なんだか少しだけ
賢くなった気分をもって、哲学への歩みを止めてしまうだろう」
と否定的ですが、
しかし、あえて個人的に解説書をあげるなら、オレ的には、
R.S.ブラッグ『プラトン入門』岩波文庫 青678-1
F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』
岩波文庫 青683-1 (特に、第二章ソクラテス・第三章プラトン)
かなぁ?ただし、参考書を読んでそれを元に『西洋哲学史一』のレポに挑むと
まず不合格かも?
その理由も上述書を読むと分かるかも。2005年5月22日 7:35 PM #13153コンノ
キーマスターあ、上の引用部分は、上述書8頁の引用です。
2005年5月22日 7:59 PM #13154コンノ
キーマスターみなさま、連続カキコ申し訳ありません。最後です。
>456
mizukokoさんへ。
自分の考えがまとまってないくせにダラダラ書き込んだせいで、
オレが何を言いたいのか分からないような印象を与えてしまったのかと
反省してます。456のレスも昨夜書き込もうとしたんですが、
ヒジョーに長い書き込みになりさらに分かりにくい表現のような気がしたので、
ヤメてしまいました。一応、今申し上げられることは、
>わたしは、人間が考えたり感じたりすることに、
>言葉の厳密な意味での客観性とか中立性などというものはないと思います。
>それぞれの主観でしかなく、また、人と人との間には、
>なかなか乗り越えられない差異の壁がある。
>しかし、それと同時に、共通するもの、普遍的なものも厳然と在ると信じます。
ということには完全に同意するということです。ただし、オレは「信じる」という言葉にこだわるというか、
警戒心をもつというか、ひっかかるものを感じるのも事実です。
「信じる」ということを無条件にするわけにはいきません。
それと、そうした対象が存在することを信じることがなぜ正当なのか。
このようなことにオレはこだわってしまうのです。オレが哲学に興味関心を持ってしまうわけには、
上記のことがその理由の一つになっていると思います。2005年5月26日 6:12 PM #13155mizukoko
キーマスター・・・ということで、雑談スレからお引越し。
哲学は(史学も同じようなものだけど)、ついこの間、学び始めたわたしが、「プラトンはイデアの実在を本当に信じていたのかしら」なんて、コンノさんやもとくん他、哲学な皆さまからすれば、稚拙きわまる質問をしてしまったのは、哲学する上での一般的な姿勢として、「簡単に信じ込まず、とにかく考え続けること」が必要とされると思うのですが、考えて考えていくじゃない? ずーっと、言葉を使って、論理を尽くして・・・ でーも、最後は、「跳ぶ」のだろうな? と思ったからなの。
わたしはかなり真面目なブディストなのですが、(わたしの)仏法においては「学」が非常に重要視されていて、しじゅう、「学べよ」「考えよ」と言われるの。
だけど、やっぱり、最後は「跳ぶ」のよね。
『パイドン』で苦労したおかげで、最初は荒唐無稽なおとぎ話or神話にしか思えなかった「イデア論」が、かなり理解できるようになってきて、というより、プラトンなりソクラテスが「イデア論」を構築したor構築せざるをえなかったor(いつかのコンノさんの言葉を借りれば)要請せざるを得なかったことの「わけ」が理解できるようになりました。
でも、それは、わたしの場合は、仏法の例えば「九識論」なんかで説明できそうな気がしているので、今度、やってみようと思っているのですが、それでもかなりのところまで理詰めで行けるのでしょうが、最後はやっぱり「跳ぶ」しかないだろうな、と思うわけ。2005年5月26日 10:48 PM #13156コンノ
キーマスター(自分の中で勝手に思ってるだけですが)
>最後はやっぱり「跳ぶ」しかないだろうな、と思うわけ。
なんだかんだで、オレもそういうの悪くないと思います。
でも、
>理詰めで考えていって、「捉えた!」と思うと、
>するりと逃げられてしまう感じ。
どちらかと言うと、いつもオレはこっちの方ですね。。。
それも又良し、と半分以上諦めています。
といいつつ論理学にまだ引っ掛かってる今日この頃。2005年5月27日 12:11 PM #13157もとくん
キーマスターmizukokoさん、
確かに、論理を尽くしても、最後には跳ぶ必要はありますよね。
仏法にしてもイデアにしても、それは価値感を含んだ体系なりな訳で
理詰めで問うても、「じゃなぜ?」な部分は残ると思います。
この行き詰まりは、同意反復=トートロジーになるだけで、堂々巡りになります。
なので、
どこかで「そーゆうふうにできている」もんなんだ、という了解が必要になりますね一休さんのうたで、
「釈迦といふ、いたづらものが世にいでて、おほくのひとをまよはするかな」
というのがありますね。でも迷うのもまた楽しい、というのもアリですよね(^-^)/ -
投稿者投稿
- このトピックに返信するにはログインが必要です。