もとくんの考えも参考にしたいと思ってますが、
この対立って、
哲学的な基礎付け主義者(西脇先生の言葉で言う)として帰納で
得られる知識を受け入れずに哲学を始めるか、
常識の擁護の立場から帰納的な(経験的な)知識を受け入れて哲学を始めるかの
立場の違いなんだとオレには思われるんですよね。
西脇先生によれば、基礎付け主義とは次のような立場を取ることです。
数学や経験科学を含む知識の基礎付け主義とは
「明らかな公理から出発して、次第に複雑な定理を順序だてて証明し…
(このような)幾何学的な知識は…知識のピラミッドとして土台からしっかりと
組み上げられ、階層的なネットワークをなしている。これを知識の理想的な
形態とし、知識はこのような基礎付けをもったものでなければならないと」主張
すること。そして哲学的な基礎付け主義とは「推論によっては正当化できない
信念の最終的なレベルがあるという見解」を持ち
「他のすべての知識はこのような信念から導き出される」と考える立場です。
哲学的な基礎付け主義者が認めたくないのは知識の正当化の無限後退です。
或る知識・信念を主張するに値する根拠がなければそれは正当化出来ない。
哲学的な基礎付け主義者は最もこの点にこだわる人々といえると思います。
しかし、或る根拠を論証したとしても、その根拠の根拠、その根拠の根拠の根拠…
と無限に後退してしまえば日常的に信じている知識や信念は正当化出来ない。
だから、常識的な知識や信念の根底にある推論を必要としない直接的に
正当化される信念に到達できて、この信念から他のすべての知識や信念が
導き出されれば、無限後退することなしに他の知識や信念は正当化できる。
哲学的基礎付け主義者はこのように考えたい立場の人たちだと思います。
(総合テキスト『哲学』第4章.3.1「基礎付け主義者とは何か」参照)
そして、基礎付け主義の立場から現実をみれば、
日常的に信じている帰納的な知識を擁護するのが誤りと言わないにせよ
正当化はできないことが帰結されそうです。
つまり、ヒュームの問題とグルーのパラドクスという困難です。
(戸田山『科学哲学の冒険』第三章参照)
『論考』のウィトゲンシュタインだと、
5・634「…ものにはア・プリオリな秩序は存在しない」
6・3「…論理学の外では、いっさいが偶然的である。」
6・36311「太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。
すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか知っているわけではない。」
等や、その他からは、彼を基礎付け主義と呼んでも差し支えないと思われますし、
帰納的知識の正当化は不可能という立場のように思われもします。
一方、自然主義をとる科学哲学の立場では、
帰納的知識は正当化出来ないかもしれないがわれわれの生きる現実世界は
どういうわけだか帰納的知識を用いるのに役に立つように出来ている、まずは
このことを認めて現実を丸ごと整合的に理解しようとする立場のように思われます。
伝統的に言えば、経験論の立場ですよね。
で、オレはと言えば、
今のところ、基礎付け主義者として哲学したいんですよね。
そのわけは、そのうち説明したいと思います。