#12981
mizukoko
キーマスター

このこさん、erikoさん、もとくんさん、引き続きありがとうございます。

それで、批判と異論ですか。なるほど。
実は、夏スクの予習で、きのうから、スピノザの「神学・政治論」を読み始めたのですが、冒頭の解説に、
 スピノザが聖書について論じるにあたってとった根本的な姿勢は、「聖書の意味はあくまで聖書からのみ求めなければならない。その意味する内容に対する客観的真理性の検討は、理性によって、改めて(別な場で)行われなければならない」というものだった。
 したがって、彼の聖書解釈が多くの箇所で理性に合致しないとしても、それは、聖書の意味するところがそのようにしか読めないということで、スピノザ自身が、その内容の真理性を容認しているわけではない(要旨)
というところがありました。
これは、この間からもとくんがおっしゃっていて、わたしが気になっている、「閉じた体系の中で考える」とか、288の、哲学の批判というのは、外部に立って独立した意見を述べるのではなく、内部の間違いを論理立てて証明すること、というのと、同じようなことですよね?(お答え、を期待のマーク)
もしそうだとしたら、わたしは、哲学(研究)の文法というか、お約束事とかいうような基本的なことが、わかっていないようですね?(これも、お返事を期待のマーク)
で、もしそうだとしたら、少し、先が見えてきたような気がするのですが。

「パイドン」を読んでいて、まずは、「なるほど、うまいこと、魂の不死を証明している。特に、第四の証明の最後のところなど、お見事! という感じ」と感心するのですが、
次には、外に出てしまい、「でも、だいたい、人間を魂と肉体にすっぱりと分けてしまうなんて、単純すぎない?」とか、「イデアの世界には、生の息吹がまったく感じられない」とか思ってしまうのですよね。
わたしのレヴェルの「異論」では仕方がないのですが、もっとまともな「異論」、一般的には批判と呼ばれるようなことは、哲学の世界ではできないのですか?
できるとしたら、どうやるのですか?
(あ、もちろん、金輪際、哲学系レポートではやりませんよ)
例えば、宗教の世界だったら、法論対決とかやりますよね。
あっ、そういえば、法論も、仏教だったら経典を、キリスト教だったら聖書を、というふうに、互いに同じものを土台にしてやりますね。
同じ土俵の上でやらないとかみ合わないということがあるね・・・(・・・ぶつぶつ・・・ 考えているマーク)

確かに、それぞれの学問のそれぞれの文法、というか、方法といったものを押さえていくことは重要ですね。
わたしは、昔、(一応)仏文学をやったのですが、強い関心を持ったテーマに、文学のアプローチではなく、史学のそれをしたくて、通信を始めたのでした。
そういう経過があるので、この機会に、哲学の文法を学ぶこと、また、論理のトレーニングをすることは、今後の研究(! あまりに大それた言い方なので、気恥ずかしい、というマーク)のためにも、役に立つかもしれませんね。
講評への反発は保留して(本当にしつこいのですが、やっぱり、あの「問い」は曖昧すぎる)、謙虚に勉強してみます。

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