#12960
mizukoko
キーマスター

顛末その3
(みなさん、すみません。これで最後です)
・・・というわけで、もう一度、原点に帰って出直しするわけですが、どうも、わたしの場合は、原点よりもマイナスの方向にもう2、3歩、戻る必要がありそうです。
そこで、文1のみなさま、文1じゃないかもしれない、もとくんさんにも質問です。
そもそも、哲学、ってなんでしょう?
そして、その動詞形の「哲学する」、形容詞形の「哲学的」って?
わたしは、宇宙のしくみ、世界のしくみ、生、または死のしくみを明らかにすることではないかと思ってきたのですが、違うのでしょうか?
それだからこそ、科学が発達して、科学的に明らかになったことと大きく矛盾する哲学は、その哲学の内部でどんなに論理的に整合していたとしても、今となってはそのままでは使えない。
例えば、プラトンのイデア論は、魅惑的ではあっても、やっぱり、荒唐無稽であるとしかいう他ありません。
それを、現代のわたしたちが、「論じる」という形で学問(!)の対象とするのは、歴史的背景とか後世への影響という角度からか、課題集の補足説明にあるようにそれがいけないというのなら、他の哲学と比較して論ずるか、または「なぜイデア論が必要なのか」または「イデア論から導き出される、あるべき生き方とは何か」といった、動機、または結果という方向に向かうほかないのではないか、と思うのですが、どうでしょうか?
ソクラテスも、いちばん言いたかったことは、生死の現象論ではなくて、「人間の生き方」=倫理の問題ではなかったかと思いますし、わたしが感動するのも、その部分にあります。
夏スクの予習でスピノザを読んでいるので、余計、そのように感じます。
わたしの言葉の力が不充分なので、言いたいことがどこまでわかっていただけるのかがとても不安です。
それでも、書かずにはいられませんでした。

みなさま、お忙しいのに、そして暑いのに、余計、暑苦しい書き込みをいたしまして、申し訳ありませんでした。

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